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古野ケ里遺跡にみる古代土木技術について

佐賀県教育委員会
 文化財課長
高 島 忠 平

1 はじめに
平成元年に吉野ケ里遺跡が発掘されて以来,多数の人々が全国から遺跡を訪れ,平成3年10月末にその数は500万人を突破した。
この数字は,考古学史上未曽有の数字であり,この遺跡に対する国民の関心の高さを示すものといえるであろう。
この異常ともいえる関心の根底にあるものは,この遺跡が「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の姿を彷彿とさせる遺跡であるとともに,その情報量の豊富さにあるといえる。
青銅器鋳造関連の遺構・遺物,絹を始めとする布の織りと染色の技術等々,挙げればきりがないほどである。同様に,土木技術についても様々な情報を提供してくれる。

2 吉野ケ里遺跡の土木工事
吉野ケ里遺跡は,外濠と内濠の二重(一部は三重~四重)の濠に囲まれた環濠集落である。この濠の断面形は,外濠がV字形,内濠が逆台形を呈している。外濠についてみると,削平以前の規模は上端幅7m,深さ4m近くにもなろうかというもので,極めて大規模なものである。
また,内濠,外濠ともその外側に土塁の存在が想定され,濠内に流入した土量から考え,高さは2m近くになるものと推定される。外濠は総延長約2.5kmに達し,その全域にわたって土塁が存在したとするならば,その作業量はかなりのものだったことは容易に想像できる。
また,外濠の断面形は各所でほぼ均一の角度60°をもっており,何かの器具で一定の基準を保ちながら掘削していったと考えられる。
外濠掘削の土量だけでも35,000m3に達し,土を掘り起こすだけで延べ35,000人,それを延長が同じ土塁を構築するのであるから,その倍を超える人口が必要となる。
吉野ケ里の当時の人口を1,000人と推定してよいが,働き手が限られてくるので,濠と土塁さらに柵列の工事量となるとかなりの年月が必要であったと考えられる。
さらに,竪穴住居,物見やぐら,高床倉庫といった百棟以上の建築物の工事量を加えると,この環濠集落の建設工事に投入された労力と資材そして時間は,今日の常識からでは想像できないほどのものでとてつもない大事業であったと考えられる。それも隣国との一触即発の緊張関係の最中にである。

3 “楼観”跡について
吉野ケ里遺跡の濠の内外からは,竪穴住居,高床倉庫等の建物の他,物見やぐらの跡が検出されている。物見やぐらの跡については我が国初の発見で,邪馬台国にあったという“楼観”を予想させるものである。
物見やぐら跡は,内濠内の東西2ケ所で濠が半円状に張り出した部分から検出されたもので,6つの柱穴からなる。西側のものについてみると梁間5.4m,桁行7.8mの規模をもつ1間×2間の建物で,建築当時の柱穴の形,規模は近隣の竪穴住居跡や濠の削平度合から考え,一辺1.5~2.0m,深さ1.5~1.6mほどのものと考えられる。
日本の建築物は6世紀末に大陸から新しい建築技術(礎石に柱を立て屋根瓦を葺く建築様式で仏教建築として日本に入った。)が入ってくるまで,建物は地中に柱の根元を埋めて建てる掘立柱建物が縄文時代以来の伝統であった。
それも弥生時代後半(紀元前1世紀後半以降)になると同じ掘立柱建物でも大規模な建築物の建設のための基礎事業が開発される。
物見やぐらについては,吉野ケ里遺跡の当面の仮整備を行った際に復元をした。復元に当たって,まず,柱を建てるために掘られた穴の配置関係とその穴の間隔から建物の平面形と平面積を設定した。弥生時代の掘立柱建物の平面積としては日本最大のものである。そして柱の穴の大きさから柱の根元の直径50~70cmと考え,この場合,直径50cmとした。
柱の長さは,根元の直径とその上に屋根の構造がのるので,用材としては10mが限界である。根元が1~1.5m土中に埋まり,屋根が2~3mと考えられる。
建物の高さは12~13mということになる。低すぎる,あるいは高すぎるといった研究者の批判がある。物見やぐらが20~30mの高さがあったとすると,柱の根元の直径は1.5m以上となり,穴の平面形の大きさにはなりえないので論外である。

高すぎるという批判は,柱に貫(ぬき)を通す構造は鎌倉時代以降という従来の定説に従ったものである。具体的には後述するが,柱と柱の間に横木を通して建物を構造的に強化する方法については,弥生時代の遺跡からその種の建築部材が発見されるようになったので構造的には問題はない。
また,全体のスタイル,デザインであるが,鳥取県淀江町で出土した同時代の土器に描かれた同種の背の高い建物の絵があり,屋根は寄棟をなし,長いはしごをかけている。復元した物見やぐらの全体のスタイルは,この絵を参考にした。
また,欄干等のデザインは,当時中国とは直接文化交流があったので,大陸の木造建築技術の影響があるので,中国漢代の楼閣を参考にした。かくして,現在の物見やぐらの復元はなったのであるが,私自身も弥生時代が原始的な社会であるという先入観があるので,いささか“立派すぎるかな”と考えている。

4 弥生時代の土木技術
吉野ケ里遺跡を始めとする弥生時代の掘立柱建物の柱穴からは,建物の沈下防止のために横木を用いたり,さらに横木を井桁状に組んだりしている。佐賀平野の低地から検出される遺構は特に顕著で,建物の沈下防止にかなりの神経を使ったことがうかがえる。
最近,佐賀県牛津町の練ケ里(ねりがり)遺跡や生立ケ里(うりゅうがり)遺跡で,従来から見られていたような建物の沈下防止の処置から考えると,極端に入念な処置をしている遺構が検出されている。
一本の柱だけに横木を用いたり井桁を組むものではなく,“地中梁”ともいえるもので,数本の柱の根元に貫穴をあけ,そこに数本の柱を貫く横木を通す完全に貫の技法を用いている。弥生時代にはすでに貫の技法が存在した証拠となるものである。
弥生時代の建物に関しては,検出された遺構以外は手掛かりがなく,土器に描かれた絵画や中国をはじめとした東アジア各所に現存する建物を参考に復元している。
日本各地で埋蔵文化財の発掘件数は増加し,古代の建築部材の出土数も極めて多数にのぼっている。
しかし,これらの建築部材から建物の上部構造を考え復元を試みるのは難しく,一部の研究者によってなされているにすぎない。
考古学と土木および建築学そして民族学という三つの分野の接点にあたるわけで,通り一遍の研究では解決できないところに難しさがあるようである。今後,ますますの学際的研究が望まれる分野である。

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