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古の技術を首里城公園に学び、そして新しい試みへ
儀間真明
首里城と首里城公園の概要

首里は那覇市の東に位置し、市内で最も高い弁ヶ嶽(167.5m)を頂点に西に傾斜した地形である。この弁ヶ嶽に連なる標高120m~130mの琉球石灰岩からなる丘陵地に、首里城は築かれている。
城は、東西約400m、南北約300mの範囲にあり、城郭は一部を除き、二重に取り囲んだ形になっている。城壁は6~11mの高さに積み上げられ、城内には、歓会門、瑞泉門等の大小12の門と正殿を中心に南殿、北殿等多くの建造物があり、石垣、城門も含め、幾多の変遷を経て増改築され、全容が整ったのは16世紀半ばごろであった。
去る大戦でこれらの建造物はことごとく灰塵に帰し、戦後の跡地は琉球大学のキャンパスとして、昭和25年から昭和54年の約30年間使用された。
昭和33年守礼門復元修理工事の竣工を皮切りに、歓会門復元工事の竣工、大学の移転統合等を経て、首里城跡の約4ヘクタールは国営公園として、その周辺の約13.8ヘクタールは県営公園として整備することが決定された。
首里城公園(国営・県営を合わせた17.8ヘクタール)は、首里城跡を核に整備が進められてきたが、図-2に示すように施設の施工主体・管理者が国、県、県教育庁等複数のため、さらに那覇市の文化施設も介在することから管理形態は非常に複雑多岐にわたっている。

首里城復元の経緯

歴史史料によると首里城は過去に4回の全焼と再建を繰り返しており、現在の復元は1712年以降に再建された首里城をモデルに復興整備されている。以下に経緯の概略を示す。
  1. 昭和25年・首里城跡地に琉球大学開学
  2. 昭和33年・守礼門復元修理工事が竣工する
  3. 昭和47年・第一次振興計画:戦災文化財の復元を積極的に推進する
  4. 昭和54年・琉球大学を千原団地へ順次移転~昭和59年移転完了
  5. 昭和57年・第二次振興計画:公園としてふさわしい範囲を整備する
  6. 昭和59年・沖縄県「首里城公園基本計画」(いわゆる首里杜構想)策定
  7. 昭和61年・沖縄県「首里城公園整備計画調査」策定
  8. ・「国営沖縄記念公園首里城地区」として首里城跡約4haの整備を閣議決定
  9. ・国営公園予定地周辺を県営公園とすることを庁議決定
  10. 昭和62年・首里城公園約17.8haが都市計画決定される→整備着手
  11. 平成 4 年首里城公園開園(11月3日文化の日)
  12. 平成12年・首里城跡地の世界遺産登録
  13. 平成20年・書院・鎖之間庭園完成供用(0.1ha)→後に名勝に指定される。

首里杜(すいむい)構想と首里城を核にしたまちづくり

首里城を頂点にした首里のまちは、首里城正殿の東の井戸、瑞泉門横の龍樋(りゅうひ)※1、集落の中に点在する数多くの共同井戸、円鑑池や人造湖龍潭(りゅうたん)※2の水等豊富な水と極めて深い関係の中に立地してきた。これらの水は集まって川をつくり、真嘉比川と金城川に流れ込み、この水系に囲まれた中に首里の歴史的な都が発展してきた。
水系の分水嶺とその一帯の緑に包まれた傾斜地に首里を代表する景勝地が点在し、首里を大きく包み込む構造的な風土環境を形成している。


  1. ※1龍樋 (りゅうひ)  :瑞泉門に昇る階段の横にあり、龍頭をかたどっている。この口から清らかな水が流れている。
  2. ※2龍潭 (りゅうたん):1427年に造られた人口の池である。ここでは中国からの冊封使を歓待する舟遊びの宴(ハーリー)も行われた。

首里杜構想は弁ヶ嶽を頂点に、この水系に囲まれた範囲及び流域と分水嶺一帯を、古都首里の歴史的発展を特徴づけた風土環境として捉え、首里城を核とする一帯を首里杜地区、これをとりまき2本の水系が骨格となった首里の街一帯を首里歴史的風土保全地区として位置づけ、今後の首里のまちづくりの方向性を示したものである(図-3参照)。

首里杜構想を踏まえ、首里城公園は貴重な国民文化遺産の回復、伝統技術の継承と発展、新たな県民文化の創出、歴史的風土深訪の場の形成を基本理念に歴史的な都市公園として保全・整備が進められてきた。
併せて、公園周辺では歴史的風土に配慮した街路、石畳、県立芸術大学や小学校等が整備され、首里城公園と一体的な景観を形成している。
しかし、戦後の土地利用は、首里城一帯の地形・植生・景観を改変させた。近年は、宅地開発に伴い、傾斜地の良質な「みどり」が減少しつつある。
今後は、この首里歴史的風土保全地区一帯について、歴史的風土という観点から、その保全強化の手法を検討する必要がある。

古の技術に学ぶ

琉球王朝時代に伝えられた風水思想は、王城の地首里のまちづくりをはじめ、地方の集落・屋敷づくりに大きな影響を与えた。首里城は、後方に弁ヶ嶽、左右に小禄(おろく)豊見城(とみぐすく)方面の嶺々、北谷(ちゃたん)読谷(よみたん)の嶺々、前方に人造湖の龍潭、那覇・泊・安謝港さらに慶良間(けらま)諸島を配した、極めて風水に優れた地にあるといわれている。風水でいう「気」というエネルギーを捉え逃がさないようにするため植林、育樹も奨励され、それが台風対策につながり、ふたつの川からの水にも恵まれて城下の街は発展していったのだろうか。
首里城とその周辺の建造物に目を移してみよう。城郭は緩やかな曲線構造であるが、これが基礎岩盤を追った結果なのか、外敵を挟み撃ちしやすいための構造なのか定かではない。基礎岩盤を追ったとしても施工は直線が容易であり、あえて曲線にする必要はない。いずれにしても、首里城の城郭は日本の他の城郭建築とは大きく異なる独特で魅力的な景観構造を成している。城壁の石積みは、本島南部で豊富に産出されるポーラスな琉球石灰岩を使用し、反りのない直線的勾配で出入隅などのコーナーは全て曲面処理されている。そしてコーナー頂部には独特な反りを持つ隅頭石が置かれている(写真-2、3)。

石積みの形状は、技術的進歩と相まって野面積み、布積み、相方積みと変遷していったことが伺える(写真-4、5)。また、歓会門や円鑑池に架かる天女橋(駱背橋)、円鑑池から龍潭への洪水吐も担う龍淵橋は、琉球石灰岩づくりアーチ構造になっている(写真-6)。
これらの素材と技術は、園内のレストセンター(首里杜館)周りの擁壁にも見られるように、いまでも土木建築構造物の修景に広く用いられている(写真-7)。

ところで、歓会門、瑞泉門、漏刻門の各門が曲がって連なっているのは、地形的制約(高低差)によるものか、外敵を迎え撃つためなのか、風水思想に拠るものなのか、それともランドスケープを意識したのか、非常に興味深い空間である。同時に、つづらに曲がる階段や城壁が作り出す造形は、みごとな景勝地のひとつとなっている。首里城公園を訪れた際は、歓会門から入園し、是非ここに足を止め往時の空間に触れてもらいたい(写真-8)。

首里城公園の利用と新しい試み

首里城公園は、平成4年の開園以来、3,800万人(平成21年度末時点)を超える方々が訪れ、近年の年間利用者は約250万人と堅調に推移しており、琉球王国の栄華を物語る真紅の世界遺産として沖縄を代表する観光拠点となっている。
都市公園として、さらに多くの人が訪れ、往時の文化・空間に触れ、利用し満足してもらえることが大事であるが、そのためには首里城公園までのアプローチをさらに充実させる必要がある。
平成15年8月沖縄都市モノレールが開通し、首里駅から龍潭通り(県の街路事業で整備中)を利用して首里城公園までは徒歩約10分の近さとなった。龍潭通り沿線は、街路拡幅と併せ那覇市の景観形成地域に指定され、赤瓦屋根を基調に壁面後退、意匠形態、緑地など古都首里にふさわしい空間演出を試みている。通りが完成したら、駅から沖縄らしい雰囲気に触れながら、いつの間にか首里城公園に誘われることであろう(写真-9、10)。

今年は世界遺産登録10周年を記念し、また、沖縄の夜の観光をあと押しする観点から、新しい試みとして「万国津梁の灯火」と銘打ち約1万本のキャンドルにより幻想的な空間を醸し出し、首里城公園の新たな魅力を生み出すことにより誘客の向上を図ってきた。今後とも、地域との連携強化、歴史・文化遺産の活用による新たな魅力づくりに努め公園利用者の期待に応えていきたい(写真-11)。
一方で、先に述べたように、近年は宅地開発に伴い傾斜地の良質な「みどり」が失われ、また、高層の建物が首里城付近まで迫ってきて眺望景観が狭まってくる懸念が強い。首里の歴史的風土の保全を図るため、景観法に基づく景観計画の策定、景観地区の指定などの早い時期のソフト整備が待たれるところである。

参考文献
  1. 1)甦る首里城:首里城復興期成会
  2. 2)首里城ハンドブック:首里城公園友の会
  3. 3)“美ら島沖縄”風景づくりのためのガイドライン:内閣府沖縄総合事務局
  4. 4)国営沖縄記念公園 首里城地区 首里城公園平成22年度事業概要:内閣府沖縄総合事務局
  5. 5)首里城公園基本計画:沖縄県
  6. 6)首里城公園基本設計:沖縄県
  7. 7)首里城公園パンフレット:沖縄県
  8. 8)首里城物語:(財)海洋博覧会記念公園管理財団
  9. 9)環中国海の民族と文化-4 風水論集 凱風社
  10. 10)写真提供:(財)海洋博覧会記念公園管理財団

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