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人口減少化社会の「地域づくり」と『生活』の意味
熊本大学 文学部 総合人間学科 教授 徳野貞雄
1.人口減少社会への勇気ある転換を

「地域づくり」を、産業振興や経済発展とからめて立論しようとする傾向が強い。全面否定する気はないが、①地域の産業振興や経済発展と②地域社会の共同性や人間関係の再構築の問題は、基本的には全く別の論理と現象であり、それを区別して整理せず、漠然と「地域」問題として混同している限り、この「地域づくり」の課題は解決しない。「地域づくり」が、地域における産業発展や経済成長だとすれば、日本各地の産業都市は全て立派でかつスバラシイ地域社会であるはずである。東京が日本で一番スバラシイ地域社会であり、名古屋周辺はトヨタの成長とともに近年スバラシイ地域社会に変貌しているはずである。
日本においては、高度経済成長以降の産業振興や経済の急激な発展が「地域社会の共同性や人間関係の絆」の解体や崩壊を引き起こしてきたことは周知の事実である。そして、産業化・都市化に伴う地域社会の共同性や関係性の弱体化を、どう取り戻すかが「地域づくり」の本来の出発点であったにもかかわらず、全くそれとは逆行する「地域づくり」=「産業振興」と発想するのは、常識では考えられない。とすれば、そこには、全く別のロジックが挿入されていると考えられる。間違いなく我々が『人口増加型パラダイム』と呼んでいる20世紀の日本に吹き荒れた基本的思考様式であろう。
明治以降の日本社会の基本的な発展パラダイムは、「人口増加+経済成長=社会発展」という人口増加型パラダイムを基本としてきた。だから人々は、地域活性化、地域振興、ムラ作り、集落再生など言葉は何であれ、地域政策は人口を増加させることであり、「人口さえ増えたらカネも回るし、職場も増えて地域は活性化するはずだ」という思考回路を抜きがたく持っている。この人口増型思考回路は、人口動態がバースコントロールの利かない多産時代の産物であり、少産多死の現代社会では全く成立しないパラダイムである。理論的上は全面的には誤りではないが、現実的には年々有効性が低下している。むしろ、この人口増加型思考回路への執着が、人口減少の現実を直視せず、従来型の地域政策のくり返しを発生させている原因である。この『人口増加型パラダイム』への執着は、頭の固い自治体や自治体を最大のクライアントにしているコンサルに抜きがたく存在している。だが、問題は何も解決せず、予算だけが消化され続けている。だとすれば、人口減少を真正面から受け止めた縮小型地域社会の成立の可能性を探ることは非常に重要である。すなわち、「脱人口増加型パラダイム」の社会システムの構築である。この課題は、単に農山村に限らず、都市部をも含めた日本社会全体に深く関わる重大な問題である。
しかし、人口減少問題(地域社会の人口論的・経済活動の存続)が、地域社会の共同性や関係生性よりも喫緊の課題だと思っている過疎農山村や地方の商店街を抱える自治体やコンサルでは、「地域づくり」を「地域経済活動の振興」にすり替えて対応してきた経緯がある。両者の混同は、今や抜きがたく一般化してしまっている。しかし、混同している限り、「地域の再生」も「コミュニティーの形成」も達成できない。地方の産業・経済問題については、校を改めて書かざるを得ない非常に巨大な課題である。ただし、人口問題については、20世紀型『人口増加型パラダイム』に固執することは、絶対に避けなければならない。絶対に今後人口は増えない。このことを腹の底から確認して、地域問題に臨まなければならない。子供を産み育てるのは家族だけであり、企業や自治体が人口増加を望むからと言って車やTVのように作れるものではない。それ故、安易に人口増加をプラン化するような計画策定は、詐欺であり犯罪ともなりかねない。確かに、人口が減り、人口構成が歪になっている地域社会では、自治体や事業体は人口増加や若者の定住の夢を見る。だけど、現実の合計特殊出生率は1.3人であり、昔には戻らない。人口減少を前提にした地域社会の構築を、苦しくても模索していくしか方法はない。その核となるのは生活構造の軸となる家族・世帯の再構築である。なお、人口減少型社会の在り方については、拙稿「縮小論的地域社会理論の可能性を求めて」(2010年、『日本都市社会学会年報』28号)を参照していただきたい。
ここで、人口論的な視点から見た将来の地域社会構造の骨格を概観しておきたい。まず、確実に人口は急激に減少する。「日本再生」「地域活性化」「地域格差の是正」などの掛け声をかけても、人口は絶対に減るのである。故に、人口減少を前提にしない社会政策、地域政策は確実に虚構の産物となる。人口減少から逃げずに、勇気を持って真正面から人口減少社会を受け入れる覚悟が必要である。すなわち、「人口増加+経済成長=社会発展」という『人口増加型パラダイム』との決別を明確に意識しなければならない。第2に、今後日本は超高齢社会に突入するが、30年後には高齢化率は急激に低下する。高齢化問題は永続的課題ではなく、時代拘束的な課題である。第3に、世帯の極小化のさらなる深化は進むが、家族は空間を超えて残存している。縮小化する家族・世帯に見切りを付け、行政や企業、NPOや「新たな公共」といった領域に依存するだけでなく、世帯と家族の混同・誤謬を整理して、新たな家族と世帯のあり方を模索し、家族機能の現代的再構築を行う必要がある。別言すれば、赤の他人との関係性や組織化をどのように構築するかを問うだけでなく、自分達の生存基盤でもある家族の中間集団としての機能をどのように構築していくかが問われている。すなわち、本質的な「生活構造」の現代的な再構築が、「地域づくり」の第一義的課題である。

2.危機化する「生活構造」

我々は、3・11の東日本大震災以降、「生きる」こと、「生活」することに対して根源的な問いに、今一度真摯に立ち帰る必要がある。「生活」とは、①個人として生きて日々活動すること、②生きていくための術、手立て、③種として生きながらえ、生き続けること、に分けることが出来る。これが「生活構造」の根本部分である。
①の「生きる」は、人間である動植物であれ、自己(個)の生命体の維持のために『生存原理』に従って、食べることや捕食や養分吸収など、自然を消費することである。ただ人間だけが、自分達の力で、食べものを育て作るという術(手だて)を獲得した。これが農耕・畜産であり、生産労働の原型である。②の「生活の術・手立て」の原型であり、同時に、現代にも継続・発展させてきた必要不可欠な知恵・技術(科学・産業化の原型)でもある。そして、“農”は、①の「生きる」ことと②の「生きる術」が直結している人間の基礎的な営為であり、それをベースに家族を再生産し③「生き続ける」を確定してきた。それは、現在でも変わらない。故に、3・11以降の『生命』の危機を感じる社会状況では、“農”や自然に対する回帰が強く発生している。
そして、人間はこの①の「生きる」と③の「生き続ける」ために、手段である②「生活の術・手立て」を、自然の恵みと脅威の真っただ中で、努力し工夫し続けてきた。だから、農民(昔の人たち)たちは、自然に対しては、感謝し同時に畏怖しながらも、深く洞察していた。故に、「生活」はつつましく、欲望はある程度抑制されていた。そして、成長よりも循環をベースに③「生き続ける」や「生きながらえる」ことに腐心していた。
しかし、我々は近代以降、手段である②の「生きるため術・手立て」を、科学技術と貨幣を軸とした経済的な分業システムの結合によって産業化社会を驚異的に発展させると同時に、自己欲望の肥大化を引き起こし、人間にとってだけの“便利な生活”や“豊かな生活”を追いかけることが“発展”や“成長”だと勘違いしてしまった。また、現代の高度産業化社会が唯一のモデル社会だとも錯覚しててしまった。その結果、①の「生きる」という『生存原理』が、空気・水・太陽・稲といった直接的な生活要件である自然体系から遊離し、②の手段である「生きる術・手立て」である【貨幣・GNPや水道・電力・食料輸入・自動車etc】の確保といった『生活手段』にすり替えられ、目的と手段が倒置した社会を作ってしまった。すなわち、経済界や政治リーダーが言っている「日本は、経済発展が何よりも重要であり、生命線である」といった『組織原理』的な言説である。そして、福島の原発事故は、これらの近代産業主義化されたトレンドの結果的な現実であり、現代的な日本の「生活構造」の現実でもある。
「生活構造」の実態が、①の「生きる」ということが『生存原理』から遊離して、②の『生活手段』や『組織原理』にすり替えられると、③の「生き続ける」ということへの継承問題、すなわち、未来への展望を描くことが非常に困難になってしまう。福島原発事故の放射能被害は、人間だけではない。合鴨も牛も、カエルも赤トンボも、稲も野菜も、草木も土壌も、自然および生態系すべてが被害を受けている。そして大問題なのは、その被害の範囲と質および被害時間がすべて不明・不確実ということである。即ち、「生活構造」の根本部分が危機に陥っている。原発事故以前から現代の若者たちを中心に広がっている「未来に対しての不安」の原因は、この産業化に伴う自分たちの「生活構造」における『生存原理』と『組織原理』の遊離に起因している。
「情報があれば、より安全な原子炉を開発すれば」と言うのは、人間の傲慢さであろう。現在の、放射能による健康問題以外にも、CO2による地球温暖化、オゾン層の破壊、生物多様性の危機等は、その多くが、②の現代の『生活技術』と『組織原理』の結合が造り出した地球規模のコントロール不能型のリスクである。さらに、過度な競争原理、家族・世帯の極小化、地域社会のおける人的関係の希薄化、自殺率の上昇など「生活」の質の低下が発生している。
だが一方で、現代の我々の上記の『生活技術(手段)』は、食料のみならず衣服も住宅も、そして移動・情報・コミュニケーションまでも産業・経済組織を軸としたシステムに依存してきたことも事実である。だから「電力」・「上・下水道」・「流通機構」・「メディア」等の産業・経済の組織的システムがなければ、現代都市生活者は飯も食えなければトイレも風呂も通勤・通学さえもできない。
すなわち、「生活構造」の実態が産業組織や経済システムに依存している。だが、組織や経済システムは、『生存原理』とは別世界で作動し、乖離し始める。ここに「危機を危機と感じない危機」と言う状況が発生してくる。このメカニズムが『組織原理』の特徴である。すなわち、【震災・原発事故→ライフラインの破壊→生命の危機までの①の『生存原理』の危機が、国や経済界の「委員会」では震災復興→生活の日常化=システムの復旧→電力の安定的供→安全基準を強化の原発推進→経済発展→日本の復興という『組織原理』】にすり変えられる。まるで火事の焼け太り的論理が横行し、『生存原理』と『経済原理』が、対場が違う人々によって激しく対立してきます。これが、国民の多くが、震災復興計画に感じている『はがゆさ』『むなしさ』の原因であると思う。

3.「地域づくり」における「生活構造」の再構築を

20世紀後半の「人口増加+経済成長」という発展型パラダイムが、人々の「生活構造」の危機化を促進し始めた21世紀の地域社会の在り方は、従来のカネの経済力に依存するだけでは展望は開けない。企業や自治体は、『組織原理』に基づいてカネとモノの量的成長を求めるが、人々は、これ以上カネとモノの豊かさよりも、暮らしの「安心・安全」を希求し始めている。生活感覚からの暮らしの豊かさを求めている。ソーシャルキャピタルとか社会関係資本とか経済学者が多用しはじめたこれらの用語は、カネの成長だけでは人々が幸せになれないことを遅ればせながら認識し始めた査証でもある。
人々の生活や社会は、①モノの力(自然への消費)と②ヒトの力(家族を軸に生き続けること)と③カネの力(生活手段)の複合体である。しかし、20世紀後半は、過度にカネの力に依存した社会を形成してしまった。そして自らの「生活構造」が危機化してしまった。この再生は、人口が減少する中でも生活基盤の軸となる家族・近隣社会のもつ②ヒトの力と①モノ(自然)の力への再認識と再活用することに尽きる。我々は今、社会や生活の目標を従来の成長路線から暮らしの安定に転換するべき時期にきている。完全に『潮目が変わり』つつある。混乱はしばらく続くが、人間が生き続け、生活し続けるためには、再度①モノ(自然)の力と②ヒトの力の持つ「生活構造」の根本部分を、地味でも再構築しなければならない。これが現代の「地域づくり」である。
21世紀の「地域づくり」とは、『危機を危機と感じられる安心』を私たちの「生活構造」の中に再構築することでもある。

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