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100 年以上稼働を続ける港湾 世界文化遺産 “ 三池港”
山本芳香
1.世界文化遺産群
「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は日本が幕末期から明治初期にかけての半世紀で、近代化を果たし、飛躍的な発展を成し遂げたことを証明する産業遺産群により構成されています。
九州・山口などの各地域に所在する一連の遺産群は、製鉄や鉄鋼、造船、石炭といった重工業分野において、19世紀後半から20世紀初頭の半世紀で西洋の技術が移転され、日本の伝統文化と融合し、実践と応用を経て産業システムとして構築される産業国家形成への道程を時系列に沿って証明しています。

構成資産は、九州・山口を中心に全国8県11市に分散し、23の資産がありますが、相互に密接な関連性があり、群として全体で1 つの価値ある資産として、平成27年5月8日に世界文化遺産として登録されました。
その構成資産の1つとして、福岡県大牟田市にある重要港湾三池港があります。

2.三池港の築港
大牟田で石炭が発見されたといわれるのは、室町時代の1469年。江戸時代には、三池藩などが採掘を進め、明治6年に明治政府の官山となりました。
明治新政府は、一刻も早く欧米列強に並び立つため、富国強兵・殖産興業に力を入れ、鉱業などを官営事業として行ってきましたが、時流により明治21年に三池炭鉱は三井組(三井財閥)に455万5千円(現在価値約500億円)で払い下げられました。
国内産業の発展による石炭需要も増加し、それに伴う出炭量も増加の一途をたどりました。
大牟田市が面している有明海は遠浅で干満の潮位差が最大5.5mと大きく、干潮時においては、沖合数㎞にわたり干潟が出現するところもあります。
このため、大型船の来航が難しく、三池炭の搬出は大牟田川河口から小型運搬船とはしけにより、対岸の長崎県島原半島南端の口之津港まで約70㎞を1日かけ海上運搬し、ここで積み替え人夫の手で大型船に積み込んでいました。

この非効率を解消するため、大牟田地先に築港が計画され、その指揮を執ったのが三池炭鉱社事務長(最高責任者)團琢磨でした。
團は明治4年、13歳の時に岩倉使節団の一員に留学生として同行し、アメリカにおいて7年間マサチューセッツ工科大学で鉱山学を習得しました。
明治11年に帰国し、国の工部省を経て明治22年三井炭鉱社事務長に就任しました。
團はこの地に築港の意思を固めた後、先進港湾を視察するため、欧米各地において、港湾施設や積み込み施設を視察しています。
そして、構想した港湾は、元の海岸線を埋め立て、潮の干満差と干潟を克服するための1830mの防砂堤と、閘門の開閉により水位を一定に保つ船渠内に1万トン級の船舶が同時に3隻接岸可能な岸壁を持つ新しい方式の港湾でした。
築港工事は明治35年、潮止め堤防工事から始まり、防砂堤工事、船渠掘削・埋め立て工事、閘門工事、明治41年船渠に入水して竣工しました。
工事にかかった費用は約376万円(現在価値約410億円)、携わった人員は、延べ262万人にのぼりました。

完成した港は、上空から見ると美しいハチドリを彷彿させる形状を持ち、「三池港」と命名されました。
三池港は、船渠の広さ13万㎡、潮待ちする内港の広さ50 万㎡、航路延長1830mを計ります。閘門は、船渠内の水位を8.5m以上に保つことが可能であり、可航幅20.12m、最大船幅18.5mの船が通過することができます。
観音開きの扉は1 枚で幅12.17m、高さ8.84m、厚さ1.20mでイギリスのテームズ・シビル・エンジニアリング社製。扉の接する箇所には、南米ギアナから取り寄せた「グリーンハート」と呼ばれる水に強く非常に堅くて重い木材が使用されました。
また、将来の交換補修の為、予備のグリーンハートも取り置かれ、港内に沈められていました。
この築港により船渠内では大型船の荷役が可能となり、港まで整備された炭鉱専用鉄道と一体となって、坑口(採炭)から鉄道(運搬)さらには港(積出)まで一貫した石炭運搬が可能となりました。

3.三池炭鉱の閉山
昭和年代に入り背後の石炭化学工業の急速な発展、及び戦後の日本経済の復興に伴い、石炭取扱量も増加し、昭和56年には取扱量が最大の710万トンを記録し、活況を呈するようになりました。
しかし、その後の石油へのエネルギー転換や、安価な輸入石炭への転換、産業構造の変化などにより、平成9年に三井三池炭鉱はその長く輝かしい歴史に幕を閉じます。
ここで、築港の指揮を執った團琢磨の言葉を紹介いたします。
『石炭山の永久ということはありはせぬ、築港をやれば、そこにまた産業を興すことができる。築港をしておけば、いくらか100年の基礎になる(主旨)。』
石炭を積みだすための築港を始めた時に、石炭がなくなった後、100年先を見据えていたであろう先人の先見性に、ただただ感服させられます。

4.公共港湾としての再スタート
炭鉱閉山に伴う大牟田地域の急速な衰退を防ぐため、国と県により公共ふ頭を整備するとともに、航路整備などの港湾機能強化を進めてまいりました。
平成18年には、韓国との間に国際定期コンテナ航路の開設を行い、移動式多目的クレーンなどのふ頭施設の整備を進めたことにより、コンテナの取扱量が飛躍的に伸び、県南部地域の経済をしっかりと支えています。

5.今後の保全
美しいハミングバードの形状、長い防砂堤、閘門を備えたドック、築港当時の姿のまま、100年経った現在でも稼働を続ける三池港。
今後、私たちはこの港を大切に使い続けてきた先人達の知恵と努力に敬意を払い、適切に保全していかなければなりません。
現状のまま保全していくことは当然、福岡県南部の物流を支えるため、港湾機能強化の整備が求められています。
このため、世界遺産としての価値を保全しつつ港湾整備を進めるに当たり、港湾計画に新たな方針を盛り込み、国・県・市をはじめとする関係者により組織される協議会を設置し、海外専門家の意見を取り入れた形で進めることとしています。
稼働資産の保全については、手探り状態であり、解決すべき課題も山積みですが、三池港がこれからも世界の宝物として稼働し続けることを心より願っています。

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