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かごしまの石橋・近代化産業遺産にみる石工技術について
~「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界文化遺産登録に向けて~
鹿児島県 宮本裕二
1 はじめに

「九州・山口の近代化産業遺産群」は,2009年1月にユネスコの世界遺産暫定一覧表に追加記載された。この提案のコンセプトは,19世紀以降,その地理的特性により,欧米列強からの圧力や影響をいち早く,そして大きく受けうる位置にあった九州・山口が,日本の近代化に向けて高いモチベーションを維持しながら,日本が非西洋地域で初めて,かつ極めて短期間のうちに近代化を果たしていく過程において,大きな原動力となったことを示すというもので,22件の遺産から構成されている。鹿児島県関係では,鹿児島市にある旧集成館,旧集成館機械工場,旧鹿児島紡績所技師館,新波止砲台跡の4件の遺産が含まれている。
本稿では,藩政時代から明治にかけて鹿児島で建設された石橋や港湾施設,集成館事業関連施設の石造構造物の石工技術と使用材料である溶結凝灰岩について若干の考察を加える。

2 藩政時代~明治の石造構造物
2-1 西田橋 1),2),3),4)
1840年,薩摩藩家老調所広郷が,肥後の石橋建設技術に目を付け,岩永三五郎を薩摩に招き,河川改修や港湾整備を命じた。三五郎は,甲突川に五大石橋(新上橋,西田橋,高麗橋,武之橋,玉江橋)を架けた。図-1に示す西田橋は4連アーチ橋で,アーチの組積(空積)には溶結凝灰岩の切石を用いており,合端面にはダボ鉄などの緊結材は使われていないことが確認されている。間詰材は斫クズ,砂利,砂,カマ土等を用いた。
我が国の石橋アーチ技術は,1634年(1648年説もある) 長崎において中国の技術により眼鏡橋を架けたことに始まり,150年以上を経て,生産力が向上した江戸時代後半から本格的に普及した。既に城石垣等に高度な技術を持っていた我が国の石工技術は,伝来した石橋のアーチ技術との融合により発展し,独自の石橋建設技術を確立した。

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図-1 西田橋の構造(解体時)4)

2-2 旧鹿児島港港湾施設 5),6),7)
鹿児島港本港区では,藩政時代から明治にかけて多くの岸岐(岸壁)や波止(防波堤)が建設された。港湾改修工事内容を記した「鹿児島築港誌」掲載の修正計画図面および防波堤断面図を図-2,-3に示す。図-2より,三五郎波止(1841年),新波止(1854年),一丁台場(1872年),弁天台場,屋久島岸岐の位置関係がわかる。そのほとんどが後の埋立や改修工事等で姿を消したが,新波止,一丁台場及び遮断防波堤の一部は現地で確認でき(写真-1,-2),2003年には土木学会選奨土木遺産に認定され,2007年には国の重要文化財に指定されている。


図-2 修正計画図面 5),6)


図-3 防波堤断面図 5),6)

写真-1 現在の新波止砲台跡

写真-2 現存する防波堤の一部

図-3より上面が湾曲して断面形状が蒲鉾形を呈する巻石構造となっており,当時の石工の技術力・工夫が窺われ,その巻石には石工の名前や屋号が刻まれている(写真-3)。


写真-3 石積防波堤の巻石 (石工の名前や屋号が刻まれている)

2-3 集成館事業関連施設 6),8)
島津斉彬によって,富国強兵をスローガンに興された集成館事業の中心となる施設が反射炉である。反射炉とは鉄の大砲を鋳造するために使われた熔解炉である。鉄は融点が高く,炭素含有量によって性質が変わることから,日本の在来技術だけでは大砲のような大型の鋳物を鋳造することは不可能であったため,オランダ技術書を参考に建設が進められた。現在,仙厳園入口付近に残る反射炉の基礎遺構は,現地近くから切り出された溶結凝灰岩によるものであり,1857年に完成した二号炉のものと推定されている(写真-5)。反射炉の湿気対策には空気層を設けることが最良で,すのこ状に並べた石組も湿気対策であることが推測され,これはオランダ技術書にはない独自の工夫である。写真-4は1872年に撮影された集成館(尚古集成館蔵)であり,日本初の工業コンビナートとして知られている。これらの工業群のうち,旧集成館機械工場と旧鹿児島紡績所技師館は現在も磯地区に残されており,そのうち,旧集成館機械工場( 写真-6:1865年竣工) は,西洋の技術を取り入れた石造平屋建で,「ストーンホーム」と呼ばれ,外壁石積は精巧な石工技術とレンガ積の技術応用と推測される目地が配置されている。


写真-4 日本初の工業コンビナート,集成館(尚古集成館蔵)

写真-5 反射炉の基礎部分

写真-6  旧集成館機械工場

3 溶結凝灰岩 4),9),10),11)

これまで述べた石造構造物は,溶結凝灰岩を使用している。鹿児島市内では溶結凝灰岩が各地で露頭し手近に採取できたこと,概ね良好な加工性と適度の強度を有している(加工性は斑状組織と構成物,強度は溶結構造によると考えられる)ことから,石垣をはじめ様々な石造構造物に古くから利用されている。
また,鹿児島の石材は産出地の地名を付けて呼ばれており,西田橋,旧集成館機械工場等に用いられているのは小野石(加久藤火砕流堆積物)と呼ばれている。表-1に小野石の室内岩石試験の結果を示す。試験結果より,溶結凝灰岩は一軸圧縮強度が約15~32N/mm2と大きく,弾性波速度は2.3~2.5km/sec.で新第三紀の泥岩と同程度である。道路トンネルでの地山区分10) ではD 級となり機械施工となるが,実際は発破施工による施工が必要となるほどの強度(粘り)を有する場合がある10),11)。当時の石工は溶結凝灰岩の特性を熟知し,石造構造物の建設に用いたものと推測される。

表-1 小野石の室内岩石試験の結果 4)

4 おわりに

本稿では,鹿児島における幕末から明治にかけての建設された石造構造物とその石工技術について紹介するとともに使用材料の溶結凝灰岩の加工性と強度について考察した。我が国の近代化は200年間の鎖国を背景とした日本固有の伝統技術と西洋技術の融合による特異な手法である。これは伝統技術の蓄積があったからこそである。ユネスコの世界遺産条約 12) によれば,「文化遺産及び自然遺産は,一国にとどまらず人類全体にとって,貴重なかけがえのない財産である。これら価値ある財産がその一部でも損壊や滅失によって失われることになれば,世界のすべての人々にとって遺産が損なわれることとなる。(中略)条約の目的は,顕著な普遍的価値を有する文化遺産及び自然遺産を認定し,保護,保全,公開するとともに,将来の世代に伝えていくことである。」とある。
日本のように限られた国土の中での生活・社会基盤整備等では,「遺産の保護」と「施設の更新」は,相反するものであるが,地域において先人の歩みを知り,将来に向かっての活力に繋げていくことは,地域活性化を進める上で極めて重要である。
今後,「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界文化遺産登録に向けた取組を進め,鹿児島に今も残る「近代化産業遺産」を通じ,産業近代化の物語や関わった技術者の努力などを多くの方々に知っていただければ幸いである。

【参考文献】
1) 鹿児島県土木課:鹿児島縣維新前土木史,1934.
2) (財) 鹿児島県建設技術センター:鹿児島縣史土木編,1985.
3) 松尾千歳:鹿児島歴史探訪,( 株) 高城書房,2005.
4) 鹿児島県土木部:西田橋移設復元工事報告書,2000.
5) 鹿児島県:鹿児島築港誌,1909.
6) 薩摩のものづくり研究会:近代日本黎明期における薩摩藩集成館事業の諸技術とその位置づけに関する総合的研究,pp15-20,2006.
7) 鹿児島県土木部港湾空港課:鹿児島港近代化百年のあゆみ,2008.
8) 松尾千歳:近代化事業と在来技術- 集成館事業を支えた薩摩の在来技術-,鹿児島地域史研究N0.4,鹿児島地域史研究会,pp.1-14,2007.
9) 鹿児島県土木部:建設資材としての凝灰岩の特性についての基礎調査委員会,(社)土木学会,1996.
10) (社)日本道路協会:道路トンネル技術基準(構造編)・同解説,pp78-79,2003.
11) 宮本裕二ら:妙見トンネル工事報告書,臨床トンネル工学,vol4, NO.1,pp.23-28,2008.
12) 文化遺産オンライン:http://bunka.nii.ac.jp

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