トップ  >  第44号 2009.01  >  ふるさとの土木史  >  広瀬久兵衛(ひろせ きゅうべい)とその業績について

広瀬久兵衛ひろせ きゅうべいとその業績について

大分県 南   芳 裕

 
広瀬久兵衛は豊後国日田郡豆田町(現在の日田市)において、商家・博多屋広瀬三郎右衛門の三男として、寛政2年(1790年)に生を受けました。 久兵衛は掛屋かけや ※として理財の敏腕を持ちながら、公共土木工事家、諸藩の経営コンサルタント等多才な能力を発揮し、多くの社会貢献と地域振興を果たした郷土の偉人です。
※(掛屋とは天領から上がる税金を扱い運用した所)
兄は広瀬淡窓で、儒学者として名声を馳せ、咸宜園かんぎえんという私塾を創立し、高野長英や大村益次郎等の著名な人物を輩出しています。
兄淡窓は幼少の頃から病気がちであったため家業の跡継ぎを断念したことから、兄に代わって久兵衛が家業を継ぎました。
久兵衛は日田郡に代官として赴任した塩谷しおのや大四郎のもとで、小ヶ瀬井路の開削や周防灘沿岸の新田開発等公共土木工事の任務を遂行しました。


広瀬久兵衛人物画像


大原神社前の水路


小ヶ瀬井路概略図


小ヶ瀬おがせ井路の開削〉
小ヶ瀬井路は総延長2,754m、日田市小ヶ瀬町の玖珠川から取水し、豆田町を抜け、再び玖珠川の支流に流れ込み、水田約500haを灌漑しています。この水路は日田市内を血管のように流れているため、日田市が水郷すいきょう日田と呼ばれる由縁となりました。
文政6年(1823年)久兵衛は日田郡代となった塩谷大四郎に願い出て、農業用水路として小ヶ瀬井路の開削に着手しました。久兵衛の従兄魚屋うおのや長八が工事の専任監督となり、多大の苦労を重ねて、文政8年(1825年)12月に竣工しています。
この水路には隧道が約900mありますが、堅固な岩盤のために掘削工事が進まず、20日間でわずかに2.6mしか進まなかった箇所もあったと伝えられています。
この当時、干魃による飢饉が多発し、人々は苦しんでいましたが、井路が完成したことにより用水を受給できる村は13ヵ村、畑が水田に変わり、天水頼み、湧水頼みであった村の農業生産は飛躍的に向上しました。
また、この水路が出来たことから、町の中心部を流れていた中城川の水量が増えたため、かねての懸案であった三隈川通船計画が実行され、日田地方から水運によって筑後地方に水上貨物が始めて運送されました。

〈新田開発、干拓工事〉
農業、とりわけ稲作は幕藩体制を支えた生産基盤をなしていました。
新田開発や農業用水路の開削が盛んに行われていましたが、通常の場合は切り土、盛り土による小規模な開発が主でありましたが、近世後期には沿岸部の浅海部を堤防によって締め切り、広大な干拓地に新田を開発するようになりました。
小ヶ瀬井路の開削が完成に近づいた頃、塩谷の指示により久兵衛らは周防灘に面した宇佐市や豊後高田市の沿岸部一帯の広大な新田開発に乗り出しました。
中でも、豊後高田市の呉崎新田は360haと他を圧する大規模なものとなり、久兵衛は文政9年(1826年)に着手しました。
当時、この地は遠浅の沿岸に沼や沢が遠く連なり、一面に雑草が生い茂り、荒涼とした湿地帯でありました。
塩谷は、これらの湿地帯を埋め立てて農地開発を行えば、大きな国益になると考え、幕府の許可を得て着工しました。
しかし、幕府の命によった工事であれば、補助金も得られたでしょうが、この工事は日田、玖珠、直入、下毛、国東の5郡が引請けとなり工事金が徴収されました。



豊後高田市の産土うぶすな神社に残る絵馬
(潮止工事の様子、中央に立つ人物が塩谷大四郎、右隣が広瀬久兵衛と伝えられている)


この呉崎新田は文政9年3月23日に着工し、干拓地面積約360ha、南北3,486m、東西86m、堤防延長4,806mで文政12年(1829年)に完成した県下最大の干拓新田です。総工費3万両、人夫33万人であったと記録に残っています。
完成後、数年を経て、広島県などから続々入植があり、開墾が進みました。明治の初めには戸数が250戸、人口が1,000人を超えるくらいになり、自治の1区画を形成しました。
また、昭和21年からは終戦後の食料増産を目的に国営干拓事業として、呉崎新田よりさらに前方に広がる沿岸部の事業が実施され、35億円を投じ昭和44年9月、23ヵ年の歳月を経て592haの新干拓地を完成させています。
呉崎新田と併せて、ほぼ1,000haとなり、現在では白ねぎや葉たばこ、ぶどう、肥育牛等県下有数の農業地帯を形成しています。
宇佐市では浜高家はまたけい新田、乙女新田、順風じゅんぷう新田、高砂たかさご新田、郡中ぐんちゅう新田、神子山みこやま新田、沖須新田、岩保いわお新田、久兵衛新田、南鶴田新田、北鶴田新田等を手掛け、指揮監督に奔走しました。
それぞれの開発とも、難工事を極め、事業費の捻出や農民からの賦課金の徴収など多くの課題を伴い、苦難の時期を乗り越えて来ました。
久兵衛新田(6.2ha)は久兵衛自身が引請け人となり、工事費の3分の2を出資したもので、塩谷郡代が久兵衛の功績を讃えて、この名が付けられました。


呉崎新田、西国東干拓(塩屋によって広瀬川と命名された川が新田の中央を流れている)


その後、大事業を遂行した久兵衛の話が伝わり、近隣の諸藩は彼を招へいし、灌漑用水や財政再建等を託し、改革発展に尽力しています。
府内藩の財政顧問となった久兵衛は日田と大分間を往来し、財政改革を果たし、府内藩の財政は大いに豊かになりました。
久兵衛は大規模な農業水利工事や通船事業、諸藩の財政再建、窮民に対して慈善救済事業に取り組むなど、慈愛の心を持ちながら世の中の発展に尽くした偉人として、後世に語り継がれています。


宇佐市寄藻よりも川河口付近の新田地帯



宇佐市駅館やっかん川河口付近の新田地帯



小ヶ瀬井路



周防灘沿岸の新田開発



広瀬久兵衛が関わった土木工事

プリンタ用画面
カテゴリートップ
ふるさとの土木史

サイト内検索
防災情報


防災情報提供センター


川の防災情報

かわ情報


九州 川の情報室

みち情報


道守九州会議


九州風景街道


九州の道の駅